「温故創新」240105 N1364 伊波喜一

空晴れて 亡き父思う 誕生日 メモ空白の 何思うらん    

 朝の気温は零度近い。陽が射しても寒い。避難所の寒さは、その比ではない。道路の分断で、救援物資やマンパワーが届かないのが辛い。

 今日は亡き父の誕生日である。生きていたら97歳になる。学徒出陣で出征したが、右太腿を米兵に射抜かれて、ハワイの捕虜収容所に送られた。船上では脱水症状から下痢が蔓延し、亡くなる兵隊が多かった。父も何とか持ちこたえ、収容所に収容された。

 その間、母親とは連絡が取れず、収容所についてからやっと手紙で安否を伝えることが出来た。すでに、半年が経過していた。

 収容所では役務をあてがわれたが、開始時刻と終了時刻が厳守されていて、午後5時になるとピタリと仕事が終わった。時間外労働は、まずなかったそうだ。2年間の収容生活を終えて帰国する際には、収容所での労賃が、1セントの間違いもなくそっくり渡された。

 「アメリカは労働に対して、きちんと対価を払う国だよ」と、感心して話していた。捕虜に対しても、労働の搾取をしないところが、自由の国の象徴として印象に残ったようだ。

 日本の戦後は、米国抜きには語れない。その米国は自国の正義を叫ぶあまりに、他国へ過度な軍事干渉をし、多くの問題を引き起こした。しかし、日本と比べて、自浄作用の働くところが米国らしさである。

 軍事と経済に偏っている日米関係が、文化や教育というレベルに立ち戻ることを、父は望んでいたのかも知れない。