「温故創新」230311 N1193伊波喜一

廻りくる 3.11 忘れまじ 心の復興 いつの日にかと 

 12年前のこの日は、地面の底が揺れるような不気味な感じから始まった。その内に電柱や電線が上下に揺れ、その勢いで信号機や電灯、看板が落ちてくるのではないかと思うぐらいだった。

 携帯はつながらず、(一体、何が起きたのか)といぶかしんだ。まさか、あれほどの大津波が東日本を襲っているとは思わなかった。

 その後、防波堤や整地、巨大陸橋をかけるなどハード面の整備は進んだが、復興は道半ばである。 

 人は思いを抱いて生きている。その思いが天変地変や事故死、あるいは病死などで突然断ち切られたときに、何を願うだろうか。

 住居などのインフラ整備に加えて、田畑や漁場など仕事の出来る環境整備も必要である。また、心身ともの健康も欠かせない。それと同じぐらい、自分の思いを受け止めてくれる人の存在が欠かせない。

 誰にも、人には話せない心の澱(おり)がある。生老病死に関わる出来事は、その体験が澱のように心に溜まり、やがてしこりとなる。肉親や近しい人を失った場合には、なおさらである。

 そんな時、寄り添って耳を傾ける人がいれば、気持ちが軽くなる。心の澱を語れるまでには時間がかるが、聴いてもらえる人が近くにいるだけで、気持ちが軽くなる。

 相手に寄り添い聴き取ることは、地味で粘り強い作業である。しかし、共助の根本に傾聴があって初めて、自助へと繋がってゆこう。