「温故創新」230105 N1149 伊波喜一

寒空に 父の記憶が よみがえる 目尻の皺と 謦咳聞こゆ

 車に霜が降り立っている。薄く張っている様は、美しくさえある。戸外はマイナス2度、芯から冷えるわけだ。

 今日は亡き父の誕生日である。生きていれば、96歳になる。間質性肺炎になり、入院を2度した。コロナ下でもあり、入院したらそのまま病院で亡くなるケースが後を絶たなかった。しかし、父はその都度乗り越えてきた。強運の持ち主だったと言えるかも知れない。

 看取るという行為は、人にしか出来ない。弔うということは、相手を敬う気持ちがなければ成り立たない行為である。

 その精神性から宗教が生まれたのか、もともと宗教心を持っていたから精神性が高まったのか。いずれにしても、今さえよければという刹那主義からは、未来世を俯瞰する行為は生まれ得ない。

 死の尊極は生の集大成であり、来世への旅立ちである。別れの際(きわ)に、家族一人ひとりが父に感謝の思いを伝えられた。このことは本人は元より、遺族にとっても心が安らぐことだった。

 難しい理屈など要らない。ただただ、父と過ごした年月と父がしてくれたことに、感謝するのみである。何も報酬を求めず、子や孫のために懸命に生きてきた父の生き方に、頭が下がる。ただ、もっと話をすれば良かった。もっと、聞いておけばよかった。そのことが、とても悔やまれる。

 残された父の日記を読みながら、そんなことを思っている。