「温故創新」220603 N1048 伊波喜一

人間の 安全保障 軸として 国の関与に 眼を光らせんか  

 一輪色づいていただけのアジサイが、今朝は5つも色づいている。気温や風の微妙な変化が、花の色づきに影響しているのだろうか。それにしても、絶妙なタイミングで花を色づかせる。

 日本では5月「経済安全保障推進法」が成立した。ただし、守る対象が「国とその価値」となっており、「国民」としての具体像が浮かんでこない。

 そんな折り、国会では「侮辱罪」の厳罰化に向け、審議が進んでいる。侮辱がどこに向けられているのか、その内容や対象が明確ではない。気をつけないと、国とその価値を守ることに特化されかねない。この流れは、戦前の「治安維持法」を想起させる。

 日本並びに日本人の特徴は、全体主義に流れやすいところである。個人の意見を主張するより、長いものに巻かれろ的な傾向が強い。正義を追求し貫くより、回りの顔色を伺い、それに同調する。

 はたして侮辱の対象が、個人の権利を守ることに焦点化されているだろうか。「桜を見る会」などに見られるように、権利を守る対象が権力者の側にあることが往々にしてある。これでは、個人の権利保障など風前の灯火である。

 法整備は、民衆の側に立ってしていかなくてはならない。基本的人権を勝ち取るには、人権闘争を闘いぬいていかなければ、その実現にはほど遠いと言わざるを得ない。