「温故創新」211124 N950 伊波喜一

否定する その前に先ず 受けとめて 対話の要 リスペクトかな                 

 青空の下、風が吹き抜ける。街路樹の葉が黄色で覆われている。道路には、無数の葉が散り落ちている。風の吹き具合なのか、一カ所に葉っぱが集まっている。踏みつけてスリップなどしないように、気をつけていきたい。

 話をしても堂々巡り、ということがある。論点もはっきりしているのに、うまくかみ合っていかない。進展性がなく、新しく何かを生み出すこともない。なぜだろう。

 この人達に共通するのは、対話に対する姿勢である。話はすれども対話せずで、自分の考えを繰り返し述べるだけである。そもそも、相手の考えを取り入れようと思ってなどいないので、自分の考えを繰り返す。これだと考えと考えがぶつかり合うだけで、一向に深まらない。

 本来、対話とは対話を通じて変容していくものである。自分の間違いに気づき、相手の誤謬を指摘することは、平易ではない。

 自分に課すハードルと相手に求める真摯さとが混ざり合い、緊張感を伴う。だから、対話には準備が必要であり、準備しただけ手応えを感じることが出来る。

 対話を避け、自分の考えに留まるのは楽である。しかし、そこから生まれるものは創造ではなく、断定と独断に満ちたものになる。

 自他の意識を変えていくには、粘り強く対話していく以外にないのではなかろうか。