「温故創新」230814 N1258伊波喜一

攻撃と 嘲りの声 充満す 対話する人 声を聞く人    

 台風7号はまだ遠くにあるが、突然雨が降ったり止んだりしている。湿度が80%もあるので、不快この上ない。

 オンラインが日常となり、対話型AIまで登場している。社会では対話の必要性が言われているが、果たして上手くいっているだろうか。

 ツイッター掲示板での言葉は、直截的で短い。文と文のつながりを考えず、刺激的な言葉で表わす。それだけ、強く印象付けられる。相手の意を汲み取って、その思いに応えることは二の次である。大事なのは、自分の思いをいかに伝えるかである。

 本来、対話は全体の文脈の中で、相手とやりとりするものである。双方向性が対話の本質である。ところが、その本質が隅に追いやられ、言ったもの勝ちの傾向が蔓延している。そうなると、声の大きい方に流れが傾いてゆく。

 あるいは、相手の話は一切聞かず、自分の主張だけを通す。相手に理解や納得をしてもらうのではなく、捻じ伏せていく。このような状況では人は対話できないし、しようと思わない。

 対話が成り立つには、安心して語れる場こそ必要である。余計なことを忖度せず、相手にしっかり向き合う。そのような場は、社会全体で小さな声を聞き取ろうとするところからしか、形作られない。

 日本社会は今、聞くことを忘れた主張型の社会になっている。様々な事件を見る時、そのツケが回ってきているのではないかと感じる。