「温故創新」200729 N497 伊波喜一

言の葉の 曖昧好む 表現で 爭い避けて 生き延びる民     

 山形では最上川が溢れて、大きな被害をもたらしている。

 雨が降っても直ぐに溢れず、10時間近く経ってから川の水が氾濫しだした。水の勢いは恐ろしい。 

 日本語は述語に特徴がある。結論めいた言い方を避けるなど、いくらでも表現をぼかすことが出来る。

 一方、西洋の言語は主語に特徴がある。誰が言っているのか、自己責任が明確であり、結論が明々白々である。主張のない発言は受け入れられないし、文責の曖昧な論は根拠を問われる。 

 しかし、米中の非難合戦を見ていると、主語の文化もいかがなものかと思われる。主張するのはいいが、周りが見えなくなるのは本末転倒であろう。大国で覇権国家の米中衝突から、はたして創造的な事柄が産まれるだろうか。 

 日本語の曖昧さは、物事をはっきりさせず、結論づけないところにある。これまでは、主義主張のはっきりしないところが、優柔不断の象徴のように言われてきた。

 確かに、キリスト教イスラム教のように、是非をはっきりさせる文化は強い。ただし、その主張を突き詰めすぎると、その先に待っているのは衝突である。 

 断定せず、争いを避けるのは、先人の知恵である。外交上手に徹するのは、叡智の現れではないだろうか。