「温故創新」200629 N465伊波喜一

近代の 人知で全て わり切らん 不合理なるか コロナのしぐさ

 梅雨の晴れ間で、朝から陽が照っている。

  南から上がってくる梅雨前線が大雨をもたらすとの予報で、洪水被害が心配だ。 

 中世からルネサンス期を経て、人類は近代合理主義の時代を経験した。さらに現代は科学・医学ともに、人知を過信する時代となっている。人はさしたる良心の呵責を感じることもなく、ヒトや動植物の遺伝子組み換えを行うようになった。

 もはや神や仏などの世界は、過去の遺物になったかのようだ。そこに起きたコロナ禍である。誰もがコロナで亡くなるとは思っていない。それだけに、その死を不条理に感じる。

 故人と最後の別れさえ出来ずに埋葬や火葬に付された遺族は、とりわけその念を強く持つ。 

 半世紀以上前に祖父が亡くなった。現代の医学レベルであれば、早期発見・処置が出来たであろう。しかし、当時の医療レベルでは措置が難しかった。末期を見守るほかすべがなかった。当時はそれが普通で、どこの家庭でも見られる光景だった。死が身近にあった。 

 死は不条理だが平等だ。誰にでも確実に訪れる。要はどれだけ覚悟を持って、死を迎えられるかだ。 

 コロナは私達が見て来なかった・避けてきた死を、直視せざるを得ない経験をもたらした。