「温故創新」220829 N1099 伊波喜一

公文書 記録の重み 肝に滲み 米国の例 範となりうる      

 秋風が吹いている。朝晩は半袖では肌寒い。9月のお彼岸までは暑さもぶり返すが、季節は確実に秋へと移っている。

 米国ではトランプ氏が、退任時にホワイトハウスから公文書を持ち出したとして、米連邦捜査局FBI)から家宅捜索を受けた。大統領が公務で誰に電話をかけたかまで記録され、メモやメールも保存される。そしてそれらは、退任時に国立公文書記録管理局へ引き渡される。元大統領に対しても忖度しないFBIの毅然とした姿勢は、米国の良心といえる。

 あのニクソン大統領のウォーターゲート事件でも、事実を掴み真実を報道する新聞社の姿勢が支持された。権力からの圧力に抗して事実を追求する姿勢は、彼の国の特質といえよう。

 併せて、記録を残すことへの執念である。どんな記録も残し、それを公開する。冷戦時に沖縄へ核兵器を配備した記録も全て残し、一定の年限が来たら公開する。この徹底ぶりには、つくづく関心する。 

 翻って、日本はどうか。陸上自衛隊の日報隠しや森友問題の記録改ざんなど、あるべき記録が残っていない。

 事実を残さず、権力に媚びる。記録を軽視するということは、言葉を軽視することと同じである。それはまた、歴史を軽視する姿勢に通じる。

 連面と続く温故を尊重せずして、未来創新はないのだ。