「温故創新」200623 N461 伊波喜一 

あまりにも 多くの犠牲 払いてか 会場問題 重く受け止め          

 朝から曇天が続いている。湿度が高く、寝不足気味である。 今日23日は沖縄慰霊の日、全戦没者追悼式が行われた。追悼式は当初、いつもの平和の礎近くの広場から、国立戦没者墓苑に変更しようとしていた。国立戦没者墓苑は、沖縄戦での犠牲を顕彰するために造られた。一方、平和の礎は犠牲を悼むために造られた。 死を悼む追悼に対し、顕彰は国のための死を誉とする。 聖戦の名の元に、国家が国民を戦争に巻き込んでゆく。市井にある人々が国家に異を唱えることなど、そう出来るものではない。沖縄戦もその典型で、愚かな指導に引きずられ、20万人もの犠牲者を出した。民間人・軍人軍属を含めた県出身の犠牲者は、4分の3にもなる。 この犠牲は顕彰という感覚ではない。追悼である。 戦争の傷跡は深く、簡単に癒えるものではない。追悼式は、大切な家族・親戚・友人を亡くした喪失感を埋める喪の作業である。これは国のための誉では、決してない。 追悼の担い手たる戦争体験者は今、減少の一途を辿っている。強烈な戦争体験を持つ第一世代と、その体験を聞いて育った第二世代が亡くなった時、追悼の意義が風化する。その危険性から目を背けてはならない。